トマトスパゲッティ

 窮屈な思いで、とはいえ自分で引き起こした事態だが、過ごした午後の終わり、携帯が鳴って、メールが届いた。差出人はとま子先輩。あけるのを一瞬躊躇うが、見ると、一言、「奢れ」。仰せの通りに、と返して、すぐさまとま子先輩がお気に入りのイタリアンの店を予約した。先輩の好みに適うだけあって、味も値段も良い店。痛い出費だった。
 就業時間まで、伊予がのんきに先輩や私に話し掛けるのを、それからずっとひやひやした思いで見ながら仕事をしなければいけなかった。もう先輩の気持ちは暴かれてしまった。私が暴いてしまった。簡単に見破られるような隠し方だったのだと先輩はいまや知っている。その上で変わらない伊予に、先輩がどう対処するのか、私は加害者の癖に被害者の内面まで心配していた。最低だ。しかし、先輩は不安を他所に平然と伊予の相手をし、仕事をこなし、そうして終業時刻になった。
 先輩に連れられて、おいてけぼりと拗ねる伊予を残して、会社を出る。先輩は無言で先を歩く。店は行きつけだから、先輩の足は速い。沈黙を怖がりながら私も早足でついて行く。
 店に着いて、メニューはもう電話で予約した時に注文しておいたから、すぐにワインが運ばれてきて、沈黙のまま口を付ける。私は始終、先輩の一挙手一投足を静かに見る。何か言って欲しかった。私から何かを言う資格は無かった。前菜が来て、かぼちゃと豆のサラダ、三口ほど食したところで、やっと沈黙が破られた。
「昼間さ、弱いところ見せろとか言ってたじゃん」
 はい、と返事した声が上ずっていた。格好悪い。先輩は気にせずに話す。
「あんた勝手に見つけてるじゃない、私の弱み」
 言い訳を並べようとしても並べる言葉が見つからない。つっかえつっかえに話そうとしても、舌を噛んだ。先輩が笑う。笑顔を見れて、少しだけ不謹慎にも嬉しい。
「頼ってくれとかも言ってたよね、ふふ、あんなの私に言ってきたのあんたが始めてよ」
 ちょっと嬉しくて強がったけど、と、とま子先輩は、嬉しそうでいて、悲しそうでもある。どうしたんだろう。どうすべきなんだろう。加害者は身動きを許されない。
「ばれて、相談しようにも他に相手がいないんだもん、情けないわ私」
 先輩はワインを煽る。給仕が注ぎにやってくる。同時に、別の給仕がパスタを運んできた。バジルとトマト。湯気に、肺を突かれたのか先輩はごほごほ、咳をする。私の前で、咳を。呆ける私に、先輩は余裕に笑ってみせる。
「ばれたらもう隠さないわよ、面倒くさい」
 昼の動揺が嘘のように先輩は落ち着いていた。強い。誰にも頼らなくても生きていけそうに見えてしまうほどに、強い。先輩も周りの人間も、本当はそれが弱さなのだとは気付かない。
「ね、亮、あんたの弱みも教えなさい」
「弱み、ですか」
 唐突な命令に、私はうろたえる。望まれるなら、なんだって差し出すつもりだけれど、先輩に教えて先輩が得をする私の弱みとは何だろう。考える。思考する。
 パスタをくるくる巻いて、口に入れて、おいしいと一言呟いて、先輩はもう一度言った。
「弱みを教えて、イーブン。そうしたら頼ってあげなくも無いわ」
 サラダにもパスタにもまだほとんど手を付けていない私は、唯一口に入れているワインをもう一口含んで、覚悟を決める。ひとつしかないではないか、先輩の弱みと取引できる私の弱み。息を吸い込んで、吐いて、もう一度吸って、言う。
「私は、とま子先輩が、好きです」