ドライトマト

 ごほごほ。ごほごほ。もう慣れてしまった見えない場所から聞こえる咳。慣れてしまった? 馬鹿な。コーヒーをいっぱい淹れて、カップを持って角を曲がる。角を曲がった死角で、先輩はいつも咳き込んでいるのを止める。無駄な行為。
 多分先輩は私が気が付いていると知っているのだろう。くしゃみや咳やあるいは泣いたり。先輩が弱さだと思っている全て。暗黙の了解で、私はそれを指摘せずにいた。弱さを知っているなんて先輩が望む筈が無いから。だけれども、慣れてしまっていいのか。慣れて、当たり前のように、煙草の煙や上司の小言、叶わないと諦観する片思いに痛む胃とか、先輩が諦めてしまったそれらの事柄を私まで諦めてしまって良いのか。
「とまこ先輩、喉は大丈夫ですか」
 受け取ったコーヒーから口を離して、先輩はどこか怯えたような表情。いや、怯えているように思うのは私の主観だからか。
「煙草とか苦手なんですよね、知ってますよ、私は」
「なぁにそれ、弱味でも握ったつもり?」
 煙草が苦手とかを弱味だと思っているのは先輩ぐらいのものだろうけれど、本人がそう信じているのだからどうしようもない。先輩は何より強くないといけないと過剰に思っている節がある。男社会でここまでの地位を若くして築いた、私たちが入社するまでの知らない経緯を察すれば当然なのだろうけれど、誰にも弱さを晒せず、強く強くあろうとしていたのだろう。
「違いますよ、もうちょっと私に頼ってくれても、弱い所とか見せてくれたらって」
 強くなくたって良い、私の前では。もし本当に弱かったって、軽蔑とか馬鹿なことしない、だって私は、先輩を好きなのだから。
「ふぅん、亮、あんたも言うようになったものね。ま、頼れるぐらいに仕事できるようになったらもう一回言いなさい」
 コーヒーを一息で飲み干して、空のカップで私の額にコツン、当てて先輩はデスクへ戻ろうとする。どうしてそう先輩は強くあろうとするの。そこで少しだけ、苛立つ資格も無いのに、私は苛立ってしまった。苛立つつまり冷静さを欠くと、大抵碌な事態が起こらないとはとまこ先輩に教わった教訓なのに。
「そんな強がったって、格好良くもなんとも無いですよ、伊予だって先輩のそんな所に憧れてる訳じゃない」
「どうしてそこで伊予が出てくる」
「先輩が、伊予を好きだからです」
 言ってしまってから後悔したのでは遅かった。もう、全てが遅かった。咳やくしゃみみたく先輩が思い込んでいる弱味ではなく、誰しもが弱味と認めるだろう弱味。先輩の同姓の後輩への片思い。伊予。振り返った先輩の、色々な感情が入り混じった顔。怒られるか、軽蔑されるか、否定されるか、それとも。
 ぽすん、呆気ない音を立てて紙のカップが床に落ちる。からからから。
「あいつは、伊予は、」
 果たして先輩が口にしたのは、私が予期していない言葉だった。
「伊予は知ってるの」
 震えているようにも見えた。泣きそうにも見えた。私は、言ってはいけない、指摘してはいけない部分を。
「いいえ、私だけです」
「そう、そう。そう、か」
 すいませんと謝ってしまいたかった、私は後悔の塊だった。しかし余りに卑怯に思えて、口をつぐむ。先輩が何か言うのを待つしかなかった。
 けれど先輩は何も言わずに、背を向けて、デスクに帰っていってしまった。私は落ちたカップを手に取って、ただ、その背を見つめた。