トマト味のど飴

 先輩は一人にならないと咳もしなかった。人の前では喉の引っかかりも小言も本音も全て飲み込んで、一人になったと周りを確認してからではないとくしゃみも咳もしなかった。
 会議が終わり、たくさんの人がいる部屋を出て、廊下に出てから、ごほごほ、ひどくしんどそうに背を丸めて先輩は咳を吐き出す。煙草が苦手なのに、それも言わずに。煙が充満した部屋にいるのさえ辛い筈なのに我慢して。
 私はすぐには追いかけない。咳をする時間が先輩には必要だからだ。
 自販機で温かいお茶を二本買って、先輩を追いかける。小さなペットボトル。廊下の角を曲がった向こう、エレベータの前のベンチでごほごほ、肺に溜まった煙を追い出す声。
「お茶、いかがですか」
 驚かせない様に足音を立てて近づいて、声をかける。私の姿を認めた途端、先輩は咳を止める。少し潤んだ目は、眼鏡の奥。
「さんきゅ」
 咳を止めるなんて、そんな器用なこといつ覚えたんですか。
 どうして器用なことを出来るまでになってしまったんですか。
 言えない、訊けない。
 ベンチに座った先輩は温かいペットボトルを手のひらに包んで、少し口に含んで喉を潤す。もう、咳は出さなくても大丈夫なのか。私も隣に腰掛け、キャップを開けて、一口飲む。苦い緑茶。こうやって私も飲み込んでしまうのだ、先輩へ近づくための言葉を。
「なぁ後輩や」
 ふざけた老人口調で先輩が言う。ふざけた口調、まるで気持ちを悟らせないように。
「何を隠してるんだい」
 全てお見通しだ、とペットボトルを突きつけて、いつも先輩は飄々と笑う。隠しているのは、本当に吐き出したいのは先輩だろうに。
「何も隠してません」
「ふぅん、そっか」
 淡々と、冷静に見えただろうか。私の台詞は。戸惑いなど、憤慨などは見えなかっただろうか。いや、もしかして、飲み込むべきでなく訊いてしまうべきだったのか。折角の機会を逸してしまったのか。
 ふと見やる、先輩の横顔。
 あ。
「なかなか来ないと思ったらエレベーター、ボタン押し忘れてたっ」
 あわあわと立ち上がって先輩は上階へのボタンを押す、私は直前の表情を見てしまっていた、見てしまっていた。見てはいけないもののような気がした。
「……先輩」
「なんだね後輩」
「大口開けてあくびって……」
 嗚呼、咳もくしゃみも頼られなくても、あくびの分だけは許されている。
 噛み締めるように頬を緩めたら移ったようにあくびが出て、私たち仲が良いのかにゃぁなんて先輩がふざけるからやってきたエレベーターにすばやく乗って扉を閉めてやった。すかさず乗ってきた先輩はもうあくびも咳もくしゃみも遠く、これはこれでつまり、幸せなのだった。