トマトジュース

 歩けないほど酔った先輩を見るのは初めての事で、ましてや一人で帰れないふらふらの先輩を自宅まで送るなんて、初めてが過ぎて緊張に足が震えてしまった。家に入れて貰うのは数度目だけれども、それでも震える。
「せーんぱい、着きましたよー」
 ポケットから勝手に鍵を出して部屋に入る。整理された風で、ブラウスが干したままだったりするワンルーム。
 肩に担いだ先輩をベッドに寝かせると、今まで喋れず唸っていた先輩が一言、「みずちょうだい」と呻いた。はいはい、なんて返事をして冷蔵庫を開けると少量の食料品、水分といえば扉一杯に埋められたビールとトマトジュースだけでミネラルウォーターなんて小洒落たものは無い。水道には浄水器が付いていたけれど使い方が分からずにグラスには水道水を入れた。
「大丈夫ですか」
 ベッドに転がった先輩を起こしてグラスを渡すと大きめのグラスだというのに一気に飲み干した。
「大分マシ……ごめんあと胃薬ちょうだい」
 いつも片手に持っているコーヒーと、常に崩さない笑顔と、仕事の出来ない上司の所為で先輩の胃はボロボロだった。そこにあれだけ酒を入れたら、カフェインとストレスとアルコール、胃酸で身体が溶けてしまうんじゃないかしら。胃薬の箱と、もう一杯グラスに水を渡して、手持ち無沙汰。落ち着いた様子の先輩に話しかける話題は少なかった。泥酔の原因や胃の荒れ様、どれも立ち入った話に思えて躊躇する。ああ、そうか。
「トマトジュース、お好きなんですね」
 ただ一つ思い当たった差し障りの無い質問に、再びベッドに転がった先輩はいつもの快活さは無いながらに答えてくれる。
「好きよ、ビールを割るの」
 レッドアイって言ったかな、と呟き声。レッドアイ。前に、胃痛で顔をしかめてまでビールを飲んでいた先輩に私が教えた飲み方だ。トマトが胃を守ってくれるから、と。
 あの時も、いつも酒を飲まない先輩が何杯もおかわりしていた。無遠慮に、自棄とも思える大酒の理由を尋ねた私に、先輩は一言、叶わぬ片思いよ、と答えた。
「また、恋してるんですか」
 あれから数ヶ月、先輩は自棄に走っていなかったから、前の相手では無いのだろう。私は腹立たしく思う。気丈なこの女性をこんなにも酔わせる人を。
「叶わぬ片思いよ」
 諦観交じりの嘲笑で、先輩は泣かなかったけれども情けなくも私は貰い泣きしてしまった。
 カフェイン、ストレス、アルコール、混じった胃酸は恋情に溶けて、この女性の心を溶かしていく。そして、溶解はトマトジュースなどでは決して中和されないのだ。
 せめて、胃だけは痛まないようにと願うだけしか出来ないのだ。
 なんて無力なトマトジュース!