夜の電話

 深夜に鳴る電話を、私は怯えていると嘘を吐きながら、膝を抱えて待っていた。ベッドの上、もぞもぞ動くせいでシーツはぐちゃぐちゃ。衣擦れの音が耳に大きい。もう深夜二時、あなたは何をしてるかな。冷蔵庫の中のお豆腐はもう賞味期限が切れちゃったよ。お仕事忙しいのかな。もう三日も家に帰ってない。待ってるよ、ねぇ少しでも時間があるなら電話かけてきてよ。声を聞きたいの、冷たい声で私の名前を呼んで。
 ぷるるるる、ぷる、がちゃ。待っていたという割りに、体が固まっていてすぐに電話を取れない。
「夜の電話はワンコールで取れって言ったよね?」
「う、うん、ごめん」
 電話の向こうの彼女の声は苛立ち混じり。この、苛立った声がとても好きだ。わざと怒らせているなんて知ったらどうなるだろう、もっと怒ってくれるかな。足をばたばたさせてみるけど、その音より受話器の小さな穴から漏れ出てくる向こうの息づかい、背景の雑音、もろもろに気がいってそぞろになる。それだけでいっちゃいそう。
「まぁいいや、今パジャマだよね? 脱いで」
 どこまで、と聞くと全部と言われる。音を向こうに聞こえるように近くに置いて、大人しくボタンを外して、上半身を晒す。少し寒くて、暖房の設定温度を上げた。ブラジャーなんて付けてないから、すぐに裸だ。下着も取ろうとして、躊躇う。
「もう濡れてたりするの、変態」
 簡単に察せられて、余計に恥ずかしい。いっそ一気に剥ぎ取ってしまおう。全身の肌を空気に晒す。受話器を取り上げて、君はどうしてるの、答えられないのを承知で聞いてみた。
「会社の仮眠室に一人。ほら、次はどうして欲しいの」
 本音を言うと声を聞いているだけで良かった。けれど彼女の望んでいる返答はそれではないと知っていたから、他の答えを考える。他と言ったって、私の望むのは彼女ばかりで、一人でする事なんて何も楽しくない。でも、彼女に言われてするのなら。彼女がそれを望むのなら。
「何か、命令、して?」
「ふぅん、淫乱。じゃあ手、舐めて、唾液でいっぱいにして、音聞かせて?」
 電話の向こうに聞こえるぐらい音が出るかしら。少しこわごわ、右手を舐める。べたべたになった手を、脱いだ下着でふき取る。勝手なことをしたら余計に怒らないかな。だけど気づかれなかったようで、それはそうだ、電話の向こうには音しか伝わらない。この体の熱も、部屋に満ちた生活臭も、口に残るしょっぱさも、暗い部屋の様子だって君は分からない。たとえば心臓がどきどき鳴る程度なら電線を通って君の耳元で脈動してくれるかな。
「触って良いよ、体」
 許されて、自分の体をべたべたの指で触る。指先もひんやり冷たい。この手が君の手だったら良いのに。目を閉じて、君に触られてると思い込んでみる。少し泣きそうになる。
「どこ触ってる?」
「胸……右胸」
「移動させて?」
「首、心臓速いの聞こえる? 腰、と、お腹、ねぇ下も触っていいの」
「聞こえない。聞こえない。触りたいの、ふぅん、駄目って言ってみようか」
「じゃあ触らない」
 君の手じゃないなら触る意味なんてないもの。イったって気持ち良くもなんともない、惰性だ。
「ふっ、良い子。ねぇ、良い子にしてたらご褒美あげようか」
 君がそんな提案するなんて珍しいね。いつも常にサディスティック、被虐趣味の私を喜ばせてるっていうのに。でも君以外ならご褒美だってなんだって無意味なの。
「ローター、入れて」
 そう、そういう言葉の方がよっぽど君らしいよ。ベッド横の引き出しから意外と小さいそれを取り出して、言われたとおりに、する。
「いっちゃ駄目よ、電源いれて、気持ち良い?」
「君以外で気、持ち良、くなんか」
「馬鹿ねぇ、そっか私以外でいきたくないのね。ふぅん。じゃあ、いきなよ」
「え、そん、な」
「いきなさい」
「わか、った」
 命令は、絶対だから。ローターの振動音。一番いい所がぐちゅぐちゅと音を立てるのを受話器越しに伝える。震えるのは別に気持ち良いからじゃない。一筋涙がこぼれて馬鹿馬鹿しいと思う。君以外欲しくないけれど、君が言うならなんでもするよ。決して、伝えないけれど。君の名前を連呼しながら、嗚呼、愚かしい。果てようとする、その時。
 がちゃ。玄関の扉が開いた。びくりと驚いて、振り向く。
「耳元で私の名前ばっかり叫ばないで欲しいんだけど」
「意地悪」
「サドが好きなんでしょ、いきそびれた?」
 にやにや笑う君が、ああどうしようもなく愛おしい。
「いってないよ、だから、しよう?」
 深夜二時、夜の電話はもう切った。