形状記憶保存

 もう身体は形なぞ失ってしまった。
 べちゃり、音がしたような幻聴。耳も同時に消え失せたのだから聞こえている筈も無いのに、精神の道楽。表皮は表皮としての役割を放棄し、内臓はもはや管である意味を解さず、骨は粉砕に粉砕を重ね、肉は血と混じり経血の如き麗しさを得る。網膜は何も映さず鼓膜は何ものにも震えず味覚芽は何にも満たされず鼻腔は空気を拒絶し手の平は優しさを感じ得ない。身体は身体としての全てを失ってしまった。否、全て全てが同化してしまった。差異があるからこその機能であるというのに。
 精神が他にうつつを抜かして身体に見向きもしなくなり、そうして寂しいという名目すら知らない身体は自らでいることを放棄した。形状の放棄。忘れ去られた形状に、身体は身体ではいられない。器が無くなれば自我を保つ能力もなくなるというのに、精神はまだ器からの解放に気づかない。気づけない。
 地面と融合も果たさず、形だけを忘れて鉄の香りの赤い液体、六割の水分。纏っていた筈の布切れに包まることも出来ず、流れ出ることも分散することも出来ない。ただ一個の液状の何か。
 やっと、やっと精神が自身の崩壊に気づけたときにはもう全てが失われていた。視覚聴覚味覚嗅覚触覚、五感といわれる感覚の全て、骨格内臓筋肉脂肪、身体が身体たりうる為の本来。焦ろうとも何を思い出せようか。他に囚われて自身さえ見失った精神の成れの果て。恋などと幻想に身を浸して形状も記憶できない粗忽者。思い出さねばいけない何かさえも把握できていない。ああ、考えに浮かぶのは恋しいと思う彼女のみ。
 形の欠片を失っていてさえ精神は自身を見ることもしない。ならば、精神もろとも心中するのも悪くは無い。刻々と別離していく身体と精神、しかし、思い出す記憶の中のあの感触。
 数時間前の彼女との会話、仕様も無いことに嘆く彼女をどうしようもなく可愛らしく思えてつい、つい頭を撫でた左手。そう、左手。
 瞬間。あの時の感覚が蘇る、甦る、よみがえる。黒い髪に触れた途端に跳ね上がった手の平の体温、動きが止まり、行動に不可解を覚えながら行為に好意を重ね合わせる。一生忘れ得ないと思えた彼女に触れた事象。そう、忘れ得ない、覚えている、自らの左手。連鎖して連なってしかして。全てすべてが彼女を通して甦る、映した瞳、声に震えた耳、触れたとたん全身に駆け巡る触覚も、一緒に食べたお菓子の味も。
 気づけば、全てが元に戻っていた。身体の心中は失敗に終わる。
 しかして、身体は形を取り戻したのだった。