サイダー

 あ、サイダー。
 駅に着く。住宅街に近い小さい駅。電車が止まる前に、向かいに座っていた親子連れが立ち上がった。母親と三歳ぐらいの男の子。買い物帰りらしい、スーパーのビニール袋。ガタン。電車が止まった音と同時で、その車両に乗っていた人は皆気付いていない、母親が持ったビニール袋から零れたサイダーの落下音。転がって、サイダーは座席の下に入り込む。何も知らないおばさんがその座席に座る。誰も気付いていない、母親も男の子もおばさんも乗客みんな。
 私は声を掛けようかと迷う。いや、迷わなかった。何も言わず、落ちたサイダーをじっと見つめていた。一言掛ければサイダーは無駄にならないだろう。親子が家に帰って、男の子がさっきのサイダー飲んでいい、なんて舌足らずに聞いた時にレジ袋に入っていなくて泣き出すなんて未来も無いのだろう。このサイダー一本でアフリカかアジアかどこかの子供が救われる希望もあるのだろうかと考えながら、私は何も言わなかった。やがてドアが開くだろう。親子は何も知らず電車を降りて、家路に着くだろう。買ったはずのサイダーが不足しているとは知らずに。そうして電車は親子連れを降ろして、連れ立って降りるはずのサイダーを乗せたままどこまでも走る。途中で不意に転がり出た缶がおばさんの足にでも当たるかもしれない。そうして存在を主張する、忘れないで。
 忘れないよ、何も言わない代わりに、忘れないよ。サイダーと、昨日別れた君を重ねて心の中で呟いて、私は眠るふりをするみたいに目を閉じた。