ひび割れ

 家の息苦しさに耐えかねて、街へ飛び出したというのに、心はもう家を思った。
 断罪的にひび割れが唇を蝕んでいく。商店街を吹く風は冷たく枯葉を踊らせ、秋の訪れと滲む血液の粒をもたらす。痛みは、特にこれぐらいの小さな痛みは意地が悪い。ひび割れに触れた指が赤い斑に色づいた、その変化を網膜が捉え、例えば黄班や視神経といった回路を通して事象を感知するまで、じっと死角で潜んでいる。目を見開き、きょろきょろと見渡す先に並ぶ色とりどりの秋の気配。恐怖、が感覚を支配しているようなどうしようもない感情を抑えきれず、少しでも多くの事象を見ておかねば、という義務感に苛まれる。生まれたての赤子と同じ速度で、刻一刻と変化するこの世界はもうそれでなくても死角だらけで、自分を無知だと思い知らしめるに十分な有様だ。
 街のにおいに胸が詰まって、足はいつのまにか家へと向かう。精神が抗って遠回りをして、見知らぬ人通りの無い町並み。舌の先をちらりと出すと、味覚芽が反応する、甘味や塩味、苦味に寂しさ哀しさ、冷却の裏の熱運動、自ら流した体液にさえ、表したい感覚に対して言葉は絶対的に不足している。感情や感覚、以前の私はこんな風に世界を感じていたか? 違う。確信的に否といえる、ひび割れが生ずる以前は確かに存在する。唇に血の川を流し、思考に、言葉に不可能を厳然と突きつける断罪的なひび割れ。侵される、蝕まれる痛みが決して不快ではないことを私はもう知っている。
 点滅する街灯を、ある種の違和感をもって感じる、それに疲れてしまった。家は、あの息苦しさをまだ居座らせているだろう。彼女、によって持ち込まれた、息苦しさ。彼女に対する、感情は今まで持ち得なかったものだ。まだ言葉によって定義されない感情。さまざまに変化する世の中で、常に変化しているということは即ち何も変化しないことに等しい。私が知りたいのは結果である。彼女を、多種多様な物を受け入れた結果。体だけが影響されたなどとはいえようも無い。彼女という毒は精神をも侵し、ひびを生ずる。そして割れ目から流れ出す、日本語ではまかない切れない感情の奔流は、異人の言葉を用いればあるいは全てを表現しうるのだろうか? 居間で一人座っているだろう、あの白い肌を思い出す、彼女が使う、真新しい仕草や感情をいつかは自分の言葉で定義せねばならない。彼女と出会って後、余裕よりも言葉が足りなかった。このひび割れた心が生ずる、名詞に変換されない様々よ! もどかしく指が唇を撫ぜる、遠くに見える家の門、落ち葉がつむじ風に舞っている、彼女もまた私を解する言語を有せず困惑の中にいるのだろうか? 枯葉と物悲しい風を、もし美しいと彼女が感じてそれに戸惑っているのなら愉快だ。分からないことに不安よりも楽しみ、好奇心やそれらに似た何某かを抱くなんてもう何年ぶりだろう。もう私を私と定義しきれなくなった言葉に、彼女の言葉を足して、それでもきっとまだ足りない。彼女、によって私で無くなった私、によって彼女でなくなった彼女、の姿がちらりと、見えた。門の前で所在無げに行ったり来たりする彼女に、抱いたこの感情は何だ? 私の姿を見て、安心したように笑いかける、こちらをすがる目にすがり付くのは反則であろう。けれどもう選択肢などこれしかなくて、私は視線を合わせる。当惑する覚悟はもう出来ている。そして、結論を下す決意も。
 言葉を発さない二人同士、身振り手振りで居間に彼女を導いて、座布団を勧める。間が持たないこの距離感に、落ち着かないのは彼女も同様だ。こちらを見やり、そして彼女は私の割れた唇に気づく。儀式めいた意味合いを含んで、彼女がそっと手を伸ばす。その剥き出しの白い肌がとても私とは違う存在だと思い知らせながら、ひび割れに触れた。居間で、並んで座ったまま、言葉を失くした私達は触れ合うことでしか互いを確認できない。白に、赤はまさしく美しく、けれど彼女はまだ当惑の最中。薄い虹彩に、紅白の色合いはどう映るのか、いつか言葉が揃ったら尋ねてみたいと思う。ただ、表情が語る、おそらく負の方向にある感情は、手を汚した血に対してか、私は分からない。未知への好奇心に付き物の不安、を私はすっかり忘れていた。不安は空気を更に重くして、息苦しさの中心に彼女はいる。汚れた指を、血よりも赤く見える舌で舐めた、その顔は少し悪く歪む。乾いて、また溢れ出した唇の血をぬぐおうと見せた私の舌を、白い指が遮る。再び血の付いた指を、彼女は私の舌で拭って、そっと笑って、もしくは笑みに見える風に顔を作って、安心させたその隙に自らの舌で私のひび割れた唇を舐めた。触れ合った、唇に舌はなんの定義も下せず、甘さや塩味、泣きたくなるような、心が弾むような、この全てを何と呼ぼう? 触れた唇と、私の口内で本来触れ合うはずの無い器官が、舌と舌が混じっていく。私はその全てを受け入れる。今まで生きてきた中で知らなかった、多種多様をこの人は与えてくれる。おそらくひび割れが修復されるために必要な何もかもが揃って、満たされていく。言葉は足りなかった。しかし要らなかった。思考に必要であった筈の言葉は、前提たる思考から否定された。彼女の毒が生んだひびを、加害者たる彼女が難なく治していく。彼女の腕の中で、私は私であることを許される。硬い発音で、息継ぎの間に発せられる吐息が、むず痒い心地よさをもってひび割れをやさしく埋めていく。元のとおりには決して戻らない、唇や精神が、毒を受け入れて自らを壊し、また構築する。
「……っ」
 慣れない声が、私の名を不安げに呼ぶ。潤んだ瞳に私はひどく、ひどく感情を動かされているのは確かなのだけれど、この感情は何なのだ。理解し切れていない感情が、私の中で生まれて、混乱を生む。この人の、不安を和らげてあげたい。抱き締められる腕に、抱き締め返したい。もっと、もっと混じり合って、その感情はなんという? 伸ばした指が、彼女の赤く染まった白い頬を撫でて、意外にも冷たいことに驚いて、もっと、私の知らないあなたを教えてほしい。慣れない発音は耳に心地よく響いて、あなたの名前も呼んだならばあなたはどう思うのだろう。言葉では絶対的に伝えられない、そんな絶対的な溝を二人で埋めていく、その作業はきっと楽しいものだろう。私に言葉はもう無くて、だからもっと、と思うこの気持ちは表せないけれど、柔らかな猫毛が指を喜ばせ、そういう全てをいつかはあなたに伝えたい。まだ今はその時でなくて、なぜなら言葉が無くてもここには全てがあって、あなたがいて私がいる、言葉よりも、もっと、行為に溺れてしまおう。震える声で私の名を呼ぶその唇を塞ぐ、きっと答えはそこにあってそこにないのだけれど、いつか言葉で定義できたならそれは素敵なことだと思う。
 甘さと、少しの塩味、寂しさと哀しさ、冷却の裏の熱運動、ひび割れは確かに存在した。しかし、もう、そんなことは、良いのだ。