部室で帰る準備をしていると後輩に引き止められた。ちなみに部活は漫画を含む本を読むだけの文学部。なぜかイラストが上手い奴が多い、要するにオタクが集まっちゃっただけの文学部。
「あれ? 先輩今日早いですね?」
重たい制鞄を、どっこいしょと言わない様に気を付けて持ち上げた私は、よっと言って鞄を下ろした。後輩は昔の少女漫画風のイラストを世界史のノートの表紙にえらく上手い筆致で描いている所だった。よく見るとそのノートは彼女の物ではなく、つまりは頼まれて描いているらしかった。
「だって何もする事ないんだもん」
なぜか驚いた風に目を見開いてこちらを見つめてくる後輩に返答する。別に早く帰らなければいけない理由もないのだが、部室で居ても仕様も無いので本屋にでも寄ろうかと思ったのだ。
「ふぅん」
後輩は不満そうに喉を鳴らす。彼女を不快にするような出来事なのか、私が早く帰宅するということは。同じ部室に居ても違う輪で違う話題に花を咲かせていた私が居なくなることが、サインペンで着色をし始めた彼女にどんな害を与えるというのだろう。
「つまんないの」
唇を尖らせて後輩は言う。部室から一人消えるという事態がそんなにつまらないことなのか。それとも、私だから?
「じゃあさよなら、先輩」
そんな不愉快を全面に押し出した顔で別れの挨拶なんてされても気掛かりで気掛かりでしょうがない。嗚呼、だから私は鞄をもう一度持ち上げる時に配慮を忘れて「よっこらせ」なんて言っちゃったんだ。
それを後輩が笑った所為で、私は魚の小骨が喉に引っ掛った様な気分で帰宅する羽目になったのだ。
どっこらしょ、と魚の小骨
ぷるるるる、と蝉の声
クーラーの効かない部屋で、埃のついた扇風機に髪を揺らしながら、初めて夏を寂しいと思った。蝉の鳴き声が、大きくなる。
携帯電話は持っていなくて、毎日家の電話を弄り回す。部活の連絡簿を眺めて、ダイヤルを押しては途中で止める。すっかり馴染んだ番号は連絡簿を見なくても思い出せる。近付いて来た蚊の飛翔音。パタパタと手をかざして向こうへ追い遣る。蝉は暑さを煽るけれど、蚊は不快さを募らせる。さらに時々聞こえる風鈴の音が、指の動きを鈍らせる。
それ程親しい訳でもない先輩。突然電話なんて掛けたら迷惑だろうか。いや、きっと迷惑に違いない。
先輩に会っていない日はもうどれだけになるのだろう。終業式から、指折り数えて、十を超えて空々しくなる。死んだ子の年を数えるのとどっちが不幸だろうと気を逸らそうとして余りに不謹慎なので止めた。蝉は休むことも知らずに鳴き続けている。
足首に何か当たる感触がしてびくりと震える。見ると自分の汗だった。怯えるものさえ私ははっきり分かっていないのか。怯えるべきは、そう。
今日何度目かのボタン、0に指を置く。そこからダイヤルする、もう覚えた電話番号。でも、最後の通話ボタンを押す指が、どうしても震える。どこかで微風に響いた風鈴の音。蝉の声に掻き消されることも無く、暑い空気を伝う。蚊はもう違う部屋に行ったのか。
怯える指はボタンを押せない。もう、何度目の諦め。
また聞こえる、涼しげな風鈴。それに驚いたのか、蝉が鳴き声を止めた。もしくは、落ちたのか。
「……あ」
無意識に震える指が押していた、通話ボタン。受話口から流れる、ぷるるるる、電子音。
蝉が、また鳴き出す。
携帯電話は持っていなくて、毎日家の電話を弄り回す。部活の連絡簿を眺めて、ダイヤルを押しては途中で止める。すっかり馴染んだ番号は連絡簿を見なくても思い出せる。近付いて来た蚊の飛翔音。パタパタと手をかざして向こうへ追い遣る。蝉は暑さを煽るけれど、蚊は不快さを募らせる。さらに時々聞こえる風鈴の音が、指の動きを鈍らせる。
それ程親しい訳でもない先輩。突然電話なんて掛けたら迷惑だろうか。いや、きっと迷惑に違いない。
先輩に会っていない日はもうどれだけになるのだろう。終業式から、指折り数えて、十を超えて空々しくなる。死んだ子の年を数えるのとどっちが不幸だろうと気を逸らそうとして余りに不謹慎なので止めた。蝉は休むことも知らずに鳴き続けている。
足首に何か当たる感触がしてびくりと震える。見ると自分の汗だった。怯えるものさえ私ははっきり分かっていないのか。怯えるべきは、そう。
今日何度目かのボタン、0に指を置く。そこからダイヤルする、もう覚えた電話番号。でも、最後の通話ボタンを押す指が、どうしても震える。どこかで微風に響いた風鈴の音。蝉の声に掻き消されることも無く、暑い空気を伝う。蚊はもう違う部屋に行ったのか。
怯える指はボタンを押せない。もう、何度目の諦め。
また聞こえる、涼しげな風鈴。それに驚いたのか、蝉が鳴き声を止めた。もしくは、落ちたのか。
「……あ」
無意識に震える指が押していた、通話ボタン。受話口から流れる、ぷるるるる、電子音。
蝉が、また鳴き出す。